香樹院語録を味わう

江戸末期の真宗大谷派講師、香樹院徳龍師の語録を読んでまいります。

2024-01-01から1年間の記事一覧

心得たと思うは心得ぬなり

香樹院語録 4―2 ▶蓮如上人御一代記聞書より 213 一 同じく仰せに云わく、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきこと…

三 心得たと思ふは心得ぬ也

香樹院語録 4―1 ある人、私はいかほど聴聞致しましても、どうも、つかまへ所が御座りませぬ、と申し上げたれば、仰せに。そうであろう。おれは、つかまへられぬやうに云ふて居るのぢや。 ※聴聞とは、わたしの心をよく観察して、わたしの心は仏にならないと聞…

徳龍師と蓮如教学

香樹院語録 3―3 南無阿弥陀仏 徳龍師は蓮如上人御一代記聞書を典拠にした話が多いが、明治期に清沢満之が現れるまでの真宗といえば蓮如教学であった。当然のこと、大谷派の講師、徳龍師もその流れを汲むものです。しかし、清沢満之の出現により大谷派の教学…

人にうりごころある

香樹院語録 3―2 ▶蓮如上人御一代記聞書より 83 一 「聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず、ややもすれば、法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころある」との仰せごとにて候う。 ※聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず。徳龍師はこういう謙虚のな…

二 表裏の不相應

香樹院語録 3―1 法話を聞く僧に盗人あり。また俗にも盗人あり。其の故は、高座の傍に居ながら、信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、我が身法談の得分にせうとかゝる。是れ盗人なり。俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に佛をだます。その故は…

仏法は聴聞にきわまる

香樹院語録 2―3 南無阿弥陀仏 なんのための聴聞かと言えば、われらは仏になるために聴聞する。聴聞して、信心をいただけば、仏となる身に定まる。だから、真宗では仏になるために聴聞する。ただ、みな同様に間違うのは、わたしが仏を信じることが信心だ、と…

御慈悲にて候うあいだ

香樹院語録 2―2 ▶蓮如上人御一代記聞書より 193 一 いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば…

一 聞法の用意

香樹院語録 2―1 年久しく聴聞いたゞけども、心の同邉たるは、過去の業報つよくして、又も三悪道にかへるしるしなりと釋尊の説き給へる金言に、少しも違はぬさまにて、まことに悲しく覺え候。このうえは、行住坐臥、念仏をことゝして、御化導を、火の中をすぐ…

信後相続の爲めの金科玉條

香樹院語録 1―3 南無阿弥陀仏 この書は明治四十一年六月二十五日、無我山房という処から出版された。編者は柏原祐義、禿義峰となっており、原文は禿氏の父親、顕誠師の所有になることが記されている。序文を書いた南條文雄師(1949-1927)は清沢満之の後、真…

徳龍伝

香樹院語録 1―2 ▶東本願寺ホームぺージより 近世後期における代表的な学寮講者に、香樹院徳龍師(1772~1858)がおります。東本願寺教団における一般僧侶の教育機関である学寮の第10代講師に数えられる徳龍師は、第5代講師にあたる香月院深励師(1749~1817…

香樹院語録 1―1 香樹院講師は、我が真宗大谷派の先輩中、學徳両全の尊宿なりしことは、何人も首肯する所なり。故に其の片言隻語も、後輩の精神修養、信後相續の爲めの金科玉條ならざるはなし。柏原祐義、禿義峯の二氏、 日課の餘暇を以て、禿氏の大人、顯誠…